横浜の川にアユが遡上しているのをご存じですか?
今回は私が活動拠点としている神奈川県横浜市の中心部を流れる河川「帷子川」についてまとめました。
この記事を読むとわかる事
・帷子川って何て読む
・帷子川の名前の由来
・帷子川ってどんな川
・帷子川の源流
・帷子川の歴史
帷子川って何て読む?
まず、帷子川と書いて何と読むかご存じですか?
帷子川(かたびらがわ)と読みます。
まず初めてこの漢字を見た人はなかなか一発で読めないのではないでしょうか。
名前の由来
名前の由来はを調べていたらいくつかの説がありましたので紹介します。
①片平説
柳田国男著「地名の研究」によると
帷子川が流れる現在の天王町の一帯は昔、一方が山でその反対側は田畑で平らな地形だったため片平「かたびら」と呼ばれていたのではないかという説が記載されています。
②地形説
海が入り江となっていたことから「潟(かた)」と呼ばれ、これが転化したのではないかとの説や地形が衣料の帷子に似ているからという説があるそう。
また、漢字の「帷子川」については、
文明12年(1480)の大山道灌の平安機構に「帷子」という地名(現在の天王町あたり)があり現在の帷子川はここから来たものとされています。
帷子川ってどんな川
帷子川は横浜市旭区若葉台付近が水源となっています。
横浜市の旭区、保土ヶ谷区、西区の市街地を西から東へと流れ、
横浜港(東京湾)へ注ぎます。
上流部では二俣川、中堀川、新井川、管田川、くぬぎ台川の支流より水量を集め、
相鉄線に沿って流下し保土ヶ谷区岩井町で今井川と合流します。
下流部では西区岡野町、平沼橋を経て、再び新田間川、石崎川と分流、合流し横浜港に注ぐ横浜市を代表する都市河川の一つです。
帷子川の全長
帷子川の全長:約17キロメートル
流域面積は57.9平方キロメートルの河川です。
旭区の中心を通り、相模鉄道と並行するように、保土ケ谷区や西区を通り、東京湾(横浜港)に注ぎます。
帷子川の源流
帷子川は旭区の上川井町を水源とし、東京湾に注ぎこむ河川です。
もともとは今の若葉台団地内に水源があったそうですが若葉台団地の造成に伴い地形が変わり消滅しました。
旭区の案内板に記載されている「帷子川の水源」とされる場所は実際は源流地点として後に人工の揚水ポンプが設置されたもので自然の源泉ではありません。
その先の少し上流の細い川筋を辿ると源流にたどり着きます。
※柵があり先には進めなくなっています
帷子川の主な歴史
帷子川はどの時代も人々の暮らしに寄り添って流れていたようです。
時代によって帷子川がどのように存在していたのか簡単にまとめました。
江戸時代
江戸時代では、帷子川河口には船着き場があったそう。
潮の満ち引きを利用した舟運の拠点として、商人が薪や炭を江戸方面に送るなど賑わっていたそうです。
電気のなかった江戸時代は、薪や炭は生活必需品として日々の暮らしに欠かせないものでした。
炊事に活用されたり、人々が暖を取るために炭火を使い日常生活が支えられていました。
帷子川のほとりで、薪を積み上げる音や炭焼きの香りが漂っていたことを想像すると、その風景は賑やかで温かなものだったことでしょう。
明治時代
明治時代では絹のスカーフの輸出が盛んになり、港に近く水陸の交通の便が良く、清流で豊富な水量のあったことから帷子川周辺には染色工場が集まりました。捺染(なっせん)の最後の工程で、布の余分な染料やのりを落とすため、帷子川の川の流れを利用して水洗いをしていたそうです。
昭和~現在
川の蛇行が激しく、大雨の時など度々氾濫していたことから「暴れ川」の異名をとっていました。
都市化が進み流域の急速な市街地化に伴い、雨水の浸透量が低下し、短期間のうちに雨水が集中して河川に流出するようになり、沿川の住宅地や商店などが幾度となく水害に見舞われ、治水対策として川の直線化や大規模な河川改修や分水路の整備が進みました。
蛇行した旧河川の跡地は多くが公園等に整備されています。
鶴ケ峰親水緑道や星川の川辺公園等があります。
分水路の詳細はこちら→帷子川の分水路(出展:神奈川県HP)
まとめ
今回は私が活動の拠点にしている帷子川の名前の由来や歴史などを簡単にまとめてみました。
横浜市の中心を流れる都市河川でありながら、アユが天然遡上する帷子川。
そんな帷子川は他に例を見ない大変貴重な川だと思っています。
汚い川と呼ばれている帷子川も現在はきれいな川に戻りつつあります。
今よりもっと帷子川の自然が豊かになり、沢山の魚、植物、鳥、虫たちが見られるように、人々の関心がもっと帷子川に向いてくれるよう日々活動を行っていきたいと思います。